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最高裁判所第三小法廷 昭和44年(あ)995号 判決

主文

原判決および第一審判決を破棄する。

本件を千葉地方裁判所に差し戻す。

理由

弁護人金子作造の上告趣意第一点は、憲法三一条違反をいうが、実質は単なる法令違反の主張であり、同第二点は、単なる法令違反、事実誤認の主張、同第三点は、量刑不当の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

しかしながら、所論にかんがみ職権をもつて調査すると、記録によれば、本件起訴状記載の公訴事実第一は、「被告人は、自動車の運転業務に従事しているものであるが、昭和四十二年十月二日午後三時三十五分頃普通乗用自動車を運転し、江見町方面から天津方面に向つて進行し、千葉県安房郡鴨川町横渚九〇五番地先路上に差掛つた際、前方交差点の停止信号で自車前方を同方向に向つて一時停止中の川名俊子(当三十四年)運転の普通乗用自動車の後方約0.75米の地点に一時停止中前車の先行車の発進するのを見て自車も発進しようとしたものであるが、かゝる場合自動車運転者としては前車の動静に十分注意し、かつ発進に当つてはハンドル、ブレーキ等を確実に操作し、もつて事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、前車の前の車両が発進したのを見て自車を発進させるべくアクセルとクラッチペダルを踏んだ際当時雨天で濡れた靴をよく拭かずに履いていたため足を滑らせてクラッチペダルから左足を踏みはずした過失により自車を暴進させ未だ停止中の前車後部に自車を追突させ、因つて前記川名俊子に全治約二週間を要する鞭打ち症、同車に同乗していた川名輝男(当四十四年)に全治三週間を要する鞭打ち症の各傷害を負わせた。」旨の事実であつたところ、第一審は、訴因変更の手続を経ないで、罪となるべき事実の第一として「被告人は、自動車の運転業務に従事している者であるが、昭和四二年一〇月二日午後三時三五分頃普通乗用自動車を運転し、江見町方面から天津方面に向つて進行し、安房郡鴨川町横渚九〇五番地先路上に差しかかつた際、自車の前に数台の自動車が一列になつて一時停止して前方交差点の信号が進行になるのを待つていたのであるが、この様な場合はハンドル、ブレーキ等を確実に操作し事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、ブレーキをかけるのを遅れた過失により自車をその直前に一時停止中の川名俊子(当三四年)運転の普通乗用自動車に追突させ、よつて、右川名俊子に対し全治二週間を要する鞭打ち症の、同車の助手席に同乗していた川名輝男(当四四年)に対し全治約三週間を要する鞭打ち症の各傷害を負わせた。」旨の事実を認定判示した。

そして、原審弁護人が、本件においては起訴事実と認定事実との間で被告人の過失の態様に関する記載が全く相異なるから訴因変更の手続を必要とする旨の主張をしたのに対し、原判決は、その差は同一の社会的事実につき同一の業務上注意義務のある場合における被告人の過失の具体的行為の差異に過ぎず、本件においてはこのような事実関係の変更により被告人の防禦に何ら実質的不利益を生じたものとは認められないから、第一審が訴因変更の手続を経ないで訴因と異なる事実を認定したことは何ら不法ではない旨の判断を示して、原審弁護人の前記主張をしりぞけ、第一審判決を維持しているのである。

しかしながら、前述のように、本件起訴状に訴因として明示された被告人の過失は、濡れた靴をよく拭かずに履いていたため、一時停止の状態から発進するにあたりアクセルとクラッチペダルを踏んだ際足を滑らせてクラッチペダルから左足を踏みはずした過失であるとされているのに対し、第一審判決に判示された被告人の過失は、交差点前で一時停止中の他車の後に進行接近する際ブレーキをかけるのを遅れた過失であるとされているのであつて、両者は明らかに過失の態様を異にしており、このように、起訴状に訴因として明示された態様の過失を認めず、それとは別の態様の過失を認定するには、被告人に防禦の機会を与えるため訴因の変更引続を要するものといわなければならない。

してみれば、第一審がこの手続をとらないで判決したことは違法であり、これを是認した原判決には法令の解釈を誤つた違法がある。そして、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。

よつて、刑訴法四一一条一号により原判決および第一審判決を破棄し、同法四一三条本文により本件を千葉地方裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。(松本正雄 下村三郎 関根小郷)(田中二郎は、外国出張のため署名押印することができない)

弁護人の上告趣意

第一点〈省略〉

第二点 原判決には、判決に影響を及ぼすべき法令の違反ないし重大な事実の誤認があり、従つてこれを破棄しなければ著しく正義に反するものと考えます。

第一、公訴事実第二(第一審判決認定第二事実。以下単に第二事実という)について。

一、前記上告の理由第一点における弁護人の主張が、仮りに憲法違反に当らないとしましても、そこにおいて、既に詳述致しましたとおり、第二事実に関する第一審判決挙示の関係証拠だけでは、第二事実を認めるのに十分ではなく、またその採用された証拠の取捨選択を誤つた違法があり、その結果被害者山田もとが被告人の車の方に倒れかかつてきたため、事故が発生したのが真実であるのに、これが看過され、かえつて、被告人が第二事実記載の過失行為によつて、同事実記載の事故の責任を負わされるというのは、法令違反ないし事実誤認も甚しく、当然破棄されて然るべきであつたのに、これを正当として維持された原審判決も、右第一審判決と同様の誤りをおかされたものというべく、それが、判決に影響を及ぼすことも極めて明白であり、且つこれを破棄しなければ甚しく正義に反するものと考えます。

第二、公訴事実第一(第一審判決認定第一事実。以下単に第一事実という)について。

一、第一審判決は、公訴事実第一の点に関し

(一) 被告人は、普通乗用自動車を運転し、同公訴事実記載の状況下にある現場附近に差しかかつたが、このような場合、自動車運転者としては、前車の動静に十分注意し、かつ発進に当つては、ハンドル、ブレーキ等を確実に操作し、もつて事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、「前車の前の車輛が発進したのを見て、自車を発進させるべく、アクセルとクラッチペタルを踏んだ際、当時雨天で濡れた靴をよく拭かずに履いたため、足を滑らせてクラッチペタルから左足を踏みはずした過失により、自車を暴走させ、未だ停止中の前車後部に自車を追突させ」川告俊子らに傷害を負わせたとの公訴事実に対し、被告人は、前記自動車を運転して、前記場所に差しかかつた際「自車の前に数台の自動車が一列になつて一時停車して、前方交叉点の信号が進行になるのを待つていたのであるが、このような場合は、ハンドル、ブレーキ等を確実に操作し事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務」があつたのに、被告人はこれを怠り、ブレーキをかけるのを遅れた過失により自車をその直前に一時停止中の川名俊子運転の普通乗用自動車に追突させ」同女等に判示のような傷害を負わせたとの事実を認定されました。

(二) ところで右公訴事実に記載された被告人の過失と右認定事実に記載された被告人の過失との間には、その態様において全く相異つたものがあります。(即ち前者は停止中の車を発進させる場合の注意義務違反であり、後者は自動車の走行中における注意義務である)。従つて、かような場合には裁判所は、訴因変更をなし、被告人に十分な防禦を尽させるべきであつたと思います。

ところが、この点に関し原審判決は、右起訴事実の過失と第一審判決認定の過失とは本質的に異るものではないとされた上、本件については検察官は被告人の司法警察員、検察官に対する従前の供述内容に基づき、公訴事実を定めたものと認られるところ、第一審裁判所においては職権で被害者川名俊子を証人として尋問し、この証言と判決挙示の他の関係証拠とを総合して、判示具体的過失行為を認定したものと認められ、かつ右証人の尋問には、被告人や弁護人に、反対尋問の機会が与えられているので、右のような事実関係の変更により、被告人の防禦に何等実質的不利益を生じたものとは認められないとされております。

(三) けれども、原審判決が言われているように、右公訴事実は、被告人の司法警察員や検察官に対する供述が殆んどそのまま認められ、これが基になつて作られたものであることを推測するのに難くなく、そして右事実に記載された被告人の過失の態様については、特別問題とされたことは何もなかつたのであります。もとよりこれらについて捜査段階から多少でも被告人の見解に異論がさしはさまれていたとすれば、被告人としても公判の段階でその点に十分注意し、防禦の万全を期したでありましよう。けれどもそのような事情のなかつた本件では、第一審判決が認定されたような被告人の過失行為は、被告人にとつて予期し得なかつたことであると思います。従つて原判決の言われるように証人川名の尋問に弁護人や被告人が立会つていればそれで防禦が尽されたとするのはいかにも形式的な立言であると言うべきでありましよう。本件における公訴事実の過失と第一審判決認定の過失とでは、後者の方が、過失の責任が重いこというまでもありません。従つて、このように、被告人にとつてより重い過失の責任を負わせるような結果を招く場合においては、訴因を変更し、これに従つて被告人に防禦させるということが必要ではなかつたかと思うのであります。

二、第一審判決は、前記のように公訴事実と異つた事実即ち被告人が「ブレーキをかけるのを遅れた過失により、その直前に一時停止中の川名俊子運転の普通乗用自動車に追突させ」たとの事実を認定されました。そして、この事実を認めるに足りる証拠は、関係証拠中川名の証言を外にしては見当りません。然もその証言にしたところで、結局川名が体験した事実から推測したにすぎないもので、これをもつて判示のような事実を認定することは、いささか無理なことであつたと思うのであります。これに反し被告人は、捜査段階の当初から、終始公訴事実記載と同じ趣旨のことを述べていましたし、本件事故の捜査を担当した露木巡査の報告書に徴するも、右被告人のこの点に関する供述には信憑力があつたことがうかがえます。従つて第一審裁判所としては、公訴事実のとおりに事実を認定されるのが自然かつ正当であつたと考えます。ところが、原審の判決は、「右川名の原審(第一審)における前記証言は、その現実に経験した事実に基く推測を述べたものであり、かつ右推測は十分経験則に適つた合理的な推測であつて、これを証拠として採用するのに何等妨げるところはない」とされ、結局この証言を基にされ公訴事実と異つた事実を認定されたこと前記のとおりであります。

ところで川名は「かなりの衝撃があつたので、止つてから飛び出したようには思われません」と証言し、被告人の車が一時停止するのを怠つたことにより、本件追突事故がおきたという事実を推測できるような趣旨の証言をしました。然し、被告人のいうように、正に車を発進しようとさせ、クラッチペタルとアクセルペタルとを踏み込んでいた際、急激にクラッチペタルを離しますと、自動車は、前方へ急速に飛び出すものであります。従つてそうした場合にも、川名の車に、かなりの衝撃を与える結果を招きます。従つて、本件において川名の車にかなりのショックがあつたからと言つて、直ちに川名証人のような推論をするのは当りません。この点、原審の判決は、右川名の推測を十分経験則に適つた合理的な推測であるとの見解を示されましたが、この見解には大いに疑問がもたれます。

そうだとしますと、結局、本件については、むしろ公訴事実に記載された事実の方が真実であるのに、第一審判決が判示のように認定されたのは、事実の認定を誤られたものと言うべきでありましよう。

三、以上のような次第で、第一審判決には事実の誤認や法令違反がありますので、破棄されて然るべきでありますのに、原判決はこれを正当として維持されました。そうだとしますと、原審の判決は、判決に影響を及ぼすべき法令の違反ないし重大な事実の誤認があり、従つて、これを破棄しなければ著しく正義に反することになります。〈以下略〉

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